シリーズ「グローバル人材について考える」-第1回-

「グローバル化・グローバル人材と言った言葉が日常でも使われてきている今日、大学のグローバル化に対応した秋入学の検討が始まり、企業においては国内←→国外から国外←→国外の人的異動、生産のみならず研究開発の脱日本と言った組織変革に直面している中、求められるグローバル人材の意味合いも変遷してきていると言ってよいでしょう。

そこで、今更ながらと言うことになるかもしれませんが、今そしてこれから私たちが考えていかなくてはならないグローバル人材を考える上で、その道の専門家の方々からアカデミックな観点だけでなく、経験や体験を通して気付き考えたことをコラム形式で紹介していきたいと思います。

第1回は、企業マンとして海外での経験を多くお持ちで、現在はその経験を活かした人事開発コンサルタントとしてご活躍中の小松文隆氏の投稿です。

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■敢てグローバル人材の意味を問う

初回は、長年、自分で提唱しておきながら自らの首を絞めるようで、いささか恐縮気味ではあるが、「グローバル人材」という言葉の意味について考えてみたい。一般に、英語圏では「グローバル」は地域や仕事の範囲を示唆することが主で、「グローバル・パーソン」のように、人の特性を表す言葉として通用するのは、恐らく日本だけだろう。そもそも、ヨーロッパや東南アジア等、国境を持っている国は、昔から戦いによって国の境が分断され、否応なく他国の人たちとの交流をせざるを得なかった。当然、風俗・習慣が異なる人達が交わるわけだから、支配関係にある内は、支配側のやり方や考え方に従わざるを得ないわけだが、時が経つに連れて中間的な民族性が芽生えてくる。そこには、どちらが正しいとかではなく、両方にとって都合の良いやり方や考え方が生き残っていくはずだ。つまり、1つの領域を超えて、新たに共通するものを創り出すことがグローバルの本質ならば、日本以外の殆どの地域は、そこで暮らすこと自体が「グローバル化」であり、住んでいる人達は、皆「グローバル・パーソン」であるはずだと言える。転じて、日本を見ると、当たり前だが、国境
はなく、他国からの進入や侵略もない。極めて、特殊なエリアだ。欧米からは、美しい景観やハイテク化されたインフラ設備を観て、「ジャパンはすべてに洗練された国だ」と評価されているようだが、いざ、人に関しては、「モノカルチャーで、あまり面白くない」と厳しい目で見られがちである。これは、我々が、無意識の内に、日本人と外国人の違いを識別して、外部からの人種には建前で接し、本音の処は蓋をしようとする「心理的な防御」に起因するからだと言われている。しかし、人間である限り、見かけは違っていても、内面の感情は共感するものがたくさんあるはずだ。今回の震災でも、援助に来たはずの米国海兵隊の指揮官が、帰国の際、飛行機の眼下に広がる、被災者が瓦礫の木材で作った「ARIGATO 」の文字を観て、逆に、「励まされ、感激した」と伝えた逸話もそのひとつだと思う。まずは、自らを筆頭に、「グローバル人材」などという、あまりグローバルでない呪縛的な言葉から、意識的に心を解放す訓練から始める必要がありそうだ・・(つづく)

◆小松文隆プロフィール◆

気持ちだけはいつも青春時代の団塊世代、早稲田大学理工学部卒業後、富士ゼロックス㈱へセールスとして入社。以後10年間トップセールスの地位を確保。国際大学へ企業留学後に、米国ゼロックスとの共同開発プロダクトでプログラムマネージャーを担う。その後、米国ゼロックスのグローバルマニュファクチャリングチーム(米・仏・英・中国の多国籍チーム)へ移籍。ワールドワイドベースでの生産の最適化モデルの立案と、現地調達のためのサプライチェーンプロセスを切り開く。その間、各国それぞれの、ビジネスにおけるマネジメントの考え方、意志決定・自己表出の違い等、身を持って体験。1996年に退社後、UCバークレイ校・東京都立大学でファイナンスや経営戦略論を履修。独自のプログラムを開発し、2000年にKFSコンサルタントを設立。「研修を研修だけに終わらせない」ために、外発的な手法理論の取得に留まらず、受講生の個々の現実並びに将来のテーマを取り扱い、必ず実践にシフトさせるシナリオを創り出させることが、講師としての使命と信じる。

好きな言葉は、アンドリュー・カーネギーの「自分の良心のみを恐れ、それに従え」

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